本所とは、現在の東京都墨田区の南の地域です。江戸時代に湿地帯を開発し宅地化した本所は、葛飾北斎の絵画「本所立川」や、池波正太郎の時代小説「鬼平犯科帳」の舞台として描かれ、明治時代を代表する文豪、芥川龍之介が暮らしたことでも有名です。また、明治初期の頃の本所は日本橋や京橋のような商店の賑わいにはまだまだ乏しく、住宅地帯から田園地帯へと移る辺りにある江戸の面影が残ったのどかな町でした。
江戸の風情が残る町、本所に注目した人物。それが、日本の銅山王と呼ばれた実業家「古河市兵衛」です。市兵衛は、採掘した銅を精錬し、より純度の高い銅を作るための「鎔銅所」の建設場所を探していました。理想の工場の立地条件は1.地価が安く、2.広大な土地であり、3.産銅や製品の運搬がしやすく、4.労働力となる人材が豊富、という4つ。隅田川と繋がる運河が縦横に走る本所は、すべての条件を備えた場所でした。そして1884年、市兵衛は本所区柳原町(現在の墨田区江東橋5丁目)の大横川に面した土地に、後に日本の電線製造の歴史を変える工場「本所鎔銅所」を設けます。
本所の地の利を最大限に活かし研究開発に邁進することで、本所鎔銅所はまたたく間に発展を遂げていきます。市兵衛は「電気精銅法」と呼ばれる電気で精製する新しい精銅技術によって、電気銅という高純度の銅の製造に成功。この銅は海外でも高く評価され、それまで評価が低かった日本産の銅の価値を向上させました。やがて1896年には本所鎔銅所に製線の新工場を増築し、電線の材料となる銅線の製造も開始。当時、輸入品に頼っていた電線の国産化への足掛かりとなりました。
1906年、銅線製造などで事業を拡大させた本所鎔銅所は、新たに設けられた日光電気精銅所に移転します。国内では通信・電力網を構築するのに電線の需要が高まり、同業他社も電気精銅設備を新増設。そうした中で時代の一歩先を行く生産体制を再構築するため、日光に拠点を移し、最新の設備と鉄道による新しい物流体制を備えたのです。そして新しい地でも時代の求めに応え続け、インフラの要である電線を供給し続けました。一方で、本所にはマッチ、石けん、ゴムなど、近代的な工場が次々に建設され、日本有数の工業地帯に変貌を遂げていきます。まだ江戸の風情が残る本所が工場建設に最適な地だと見抜いた市兵衛は、「本所」を発展させたパイオニアの一人でもあったのでした。