時は1888年。前年の東京電燈の開業に続いて神戸電燈が開業し、神戸市内への電力供給が始まりました。ただ、当時の神戸にあった外国人居留地からは「電柱を建てて電線をかけると、美しい景観を損ねる!」との苦情が…。欧米では、電線は地下に通すのが一般的だったのです。神戸電燈はその意見に対応するため、外国人居留地には高価なアメリカ製の「エジソン・チューブ式地中電線」を布設。これが、日本初の地中電線と言われています。
東京電燈や神戸電燈が外国製の地中電線を使う中で、日本初の国産品導入に挑んだのが京都電燈です。当時の日本にとって、高価で取扱いが困難な輸入製品からの脱却は大きな課題。そこで京都電燈は、伏見火力発電所と京都市内をつなぐ地中電線の製造を、電線の開発に取り組んでいた住友電線製造所に託します。その決断に対し、住友電線製造所は苦労の末に見事に対応。当時の最先端技術であった「紙絶縁鉛被(かみぜつえんえんぴ)ケーブル」を実用化し、1911年に日本初の国産電線の地中化に成功しました。
日本初の国産地中電線が布設されてから8ヶ月後、明治天皇が崩御され、「伏見桃山陵」の造営が決まりました。新しく設けられた桃山駅から祭場までの約2kmの間には内外灯が必要となり、その送電のために地中電線が布設されることに。大葬までたった1ヶ月しかない中で、住友電線製造所は製造工程に改良を加えることで見事にその大役を果たしました。そして、天皇陵の景観を損ねずに周辺に電力を供給する一助となったのです。