日本の電線製造は、どのようにして発展をとげたのでしょうか?
そのヒミツを探るべく、1854年創業の電線会社「津田電線」に潜入!
160年以上の歴史を振り返り、国産電線のルーツや歩みに迫ります。
ご協力いただくのは
第7代目社長の津田幸平さんと
常務取締役の井上英司さん。
京都にある津田電線本社で、
お話をお伺いしました。
——津田電線の創業のきっかけについて教えてください。
江戸末期、創業者の津田幸兵衛が京都の高野川で水車を使った銅線引き工場を始めたのがきっかけです。
当時はまだ電線が普及していない時代ですが、京都の町屋や寺社の屋根瓦を固定するのに使う銅線を作っていました。高野川に生産拠点を築いたのは、原料となる銅を産出する面谷銅山(おもだにどうざん)が福井県にあり、福井と京都を結ぶ街道沿いであること、さらに高野川の水運も利用できるという物流に適した立地だったからです。
牛車や船で物資を運んでいた当時は、商売に適した場所選びも重要でした。
創業当初、幸兵衛は「松本屋幸兵衛」という屋号で商売をしていました。なぜ「松本」だったのかはわかりませんが、屋号にあしらわれている「山」は銅山をあらわしているのかもしれません。
また、昔からこのあたりでは寺社の仏具用に多くの銅細工が作られていたそうで、津田家が銅を扱い始めたルーツはそこにある可能性があります。
幸兵衛の工場では銅線以外にもさまざまな銅細工を作っており、明治初頭は分銅が多く売れて工場が潤ったそうです。度量衡の基本となる分銅を生産できるのは認可された工場だけなので、その頃には社会的信頼も築かれていたのだと思います。
——元々は銅線を作る工場として始まったんですね!
ではその銅線が電線として使われ始めたのは
いつ頃なのでしょうか?
1881年に、今のNTTの前身である工部省へ銅線を納めたのが最初です。横浜・東京間で電報の取り扱いが始まった当初は、輸入鉄線が電線に使われていました。
しかしベルが電話機を発明した翌年の1877年に工部省が電話機を輸入し、より安価で精度の良い国産の銅線が大量に必要になったんです。こうして、津田電線は販路を拡げていくことになりました。
工部省の後身である逓信省(ていしんしょう)で津田電線の銅線をテストしたところ、非常に電導率の良い材質であることもわかりました。
——津田電線の銅線は、
なぜそれほど高品質だったのでしょうか?
津田電線の銅線は福井県越前大野の面谷銅山で採れた銅を使っていたのですが、その銅は「銀入り銅」というとても品質の良いものでした。
普通の銅鉱よりも銀分を多量に含んでおり、その素材の良さを生かすことで電導率の良い製品が得られたそうです。
その後、東京や横浜の電線会社にも材料となる銅線を納めていたと聞いています。越前大野の面谷銅山で採れた銅の品質は、そこでもご好評をいただいていたそうです。
INTERVIEW DATE:2018/3/1