銅線引き工場として始まった津田電線が、発展をとげる理由とは?
近代化していく京都とのつながりや、津田電線を支えた人物、
そして受け継がれ続ける大切な想いを聞きました。
ご協力いただくのは
第7代目社長の津田幸平さんと
常務取締役の井上英司さん。
京都にある津田電線本社で、
お話をお伺いしました。
——津田電線はその後、
どのようにして発展をとげたのでしょうか?
津田電線の発展は、京都の近代化なくして語ることはできません。明治時代に入り天皇が東京へ移られたことで、京都は一気に活気がなくなってしまいました。
京都の町には空き家が増え火が消えたように寂しくなったところ、これではまずいと京都各地の町衆が立ち上がり、平安建都1100年記念として京都の近代化事業が行われることになったのです。そのうちの2つの事業に電線が使われることになり、津田電線は大きな転換期を迎えました。
ひとつは京都に日本初の事業用水力発電所を作ったこと、そしてもうひとつは、京都に日本初の路面電車を走らせたことです。
水力発電所の電線の製造は今の関西電力(京都支社)の前身である京都電燈から、路面電車を走らせるための「トロリ線」の製造は、京都電気鉄道からご依頼をいただきました。
水力発電所を作ったり、路面電車を走らせたりできたのも、「京都を再び活性化したい」というみんなの力があったからです。そのお手伝いをさせていただけたことで、京都の町とともに発展をとげることができました。
——京都の近代化とともに、津田電線の電線は広く
使われるようになったんですね。では、
信頼を築けた要因とは何だったのでしょうか?
面谷銅山の品質の良い銅を使っていたことがやはり大きいですが、製造した電線の試験を外部の研究機関にお願いし、常に製品の改善を続けていたことも重要でした。定期的に京都帝国大学で製品の品質試験を行っており、銅線の品質について「診断結果良好」と回答された文書も残されています。
当時、代表を務めていた津田アサは津田幸兵衛の長女で、早世した夫に代わり津田電線の発展のために尽くしたそうです。ひいおばあさんは非常にやり手だった、と伝わっています。
また、製品のテストだけでなく、博覧会への出品や東京での商売も彼女が率先して行っていたようです。1903年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会では、アサが電線を出品し受賞したことが受賞者名簿に残っているんですよ。
明治の中頃にできた伏見工場では最先端の外国製機械を導入していますが、そういった最新の技術や情報をいち早く取り入れられたのも、アサが外部と積極的に交流していた影響が大きかったのだと思います。
——最後に、「津田電線」が
大切にしていることについて教えてください。
津田電線には、親子3代や家族で働いてくれた方もいらっしゃいました。「祖父や父が津田電線で働いているので」と言って入社してくれたり、定年後も働いてくださったり。「もっとここで働きたい」とか「家族もこの会社で働かせたい」と思ってもらえる、そんな会社でありたいですね。
次に、百数十年お付き合いいただいているお客様を大切にすることです。それだけ長くご信頼してもらえるのは、プレッシャーではありますが誇りでもありますから。お客様からのご要望にきめ細かく応えてきた現在、膨大な数の仕様書を保管しています。全てを定期的に出荷することはありませんが、いつでも対応できるよう残してあります。
そして最後に、代々受け継がれる「社会のために」という想いでしょうか。
例えば、鉄道の信号装置はパッと見たら青いランプと黄色いランプにしか目がいきませんが、そこには我々の信号ケーブルが使われています。それは見えないところにありますが、なかったら信号装置は動きませんから。陰から社会に貢献できていることが我々の誇りですし、本当にうれしいことだと思っています。
津田電線の社是にも「社会のために」という言葉があるのですが、この想いは昔から色あせず、今も大切にされ続けています。
INTERVIEW DATE:2018/3/1