善八が新宿工場を構えた頃、日本の近代化はさらに進んでいました。大阪・京都・名古屋には電燈会社が次々と開業し、上野公園の“内国勧業博覧会”では日本初となる電車の試運転を実施。浅草公園の凌雲閣では日本初のエレベーターが導入され、いよいよ電気は動力として使われる時代へ。国内では安価で安全な電線が求められ、時代の変化に応えるために次なる策が求められました。新宿工場ではゴム線の研究が始まりゴムの混錬に必要なゴムロールの機械を購入しましたが、水車の馬力が足りず動かせませんでした。また、御料地のため出入りが厳重で材料の搬入や製品の搬出が困難なため、新宿工場設立からわずか2年後の1890年、新たな製造拠点として千駄ヶ谷へ移ります。
絶縁性に優れ安全なゴム被覆線の需要は高まる一方でしたが、当時は外国製の高価なものが主流で国産品の完成はまさに悲願。電線会社の間では“ゴムを制するものは電線を制す”と言われるほどでした。千駄ヶ谷に拠点を移した善八はようやくゴム被覆線の開発に成功。次は量産化のために蒸気機関が必要になりました。そんな時に、近場の休業中の製糸工場が10倍近い広さで蒸気機関も備えていたので、将来の発展のために買収を決意。千駄ヶ谷に第二の生産拠点を築きました。
千駄ヶ谷の新工場への移転によって生産力は急上昇。そのような中、首脳部の充実が必要となり、実子のいない善八は1900年に末弟の留吉と甥の岡田顕三を呼び寄せ経営体制を固めました。それが図らずも何かの予感であったかのように、翌年に善八はこの世を去りました。遺言で後継者に選ばれた留吉は、藤倉電線護謨合名会社を発足。ゴム被覆線への熱意は相当なもので、1903年には逓信省から日本で初めてのゴム被覆線指定工場に指定され、さらに、1907年には高等ゴム電線製造の指定を受け “技術の藤倉”と言われるまでになったのです。
千駄ヶ谷工場は生産量の増大によって手狭となり、海上輸送にも不便でした。また、明治神宮の造営が始まり、工場からの煙が神宮まで流れていくために操業停止要請も度々入るようになりました。そこで次なる製造拠点として、現在の東京都江東区木場に位置する深川で最新鋭工場の建設計画に着手します。1923年1月、ついに深川工場の操業が開始しますが、そのわずか8ヶ月後の9月に関東大震災が発生。更に1945年の東京大空襲でも被災し、深川工場は2度も全焼してしまいました。しかし苦難に見舞われる度に工場を再建し、理想の地である深川でゼロからのスタートを切り、藤倉電線は戦後の復興への道を歩んでいきました。
明治初期の頃は大阪や京都が銅の精錬拠点となっており、東京の多くの電線メーカーは関西で最終加工された銅線を海上輸送で仕入れていました。そして、特に大きな供給元となっていた存在が「電線製造のヒミツに迫る!」でご紹介した津田電線。面谷銅山の銅を使った高導電率の銅線は関東でも非常に評価が高く、藤倉善八も津田商店から銅線を仕入れていたそうです。
東京都フジクラ社には、今もその当時のハガキが残されている。